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2011/03/29

ブンミとジブリと世界のファンタジー



ーこの世は神の手で作られたと考える人と
自然にできたと考える人、その間には決定的な違いがある

先日映画を観た、タイ人監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」。
舞台はタイ北部、死を目前に迎えた男性の前に、精霊や民話の奇妙な生物が現れる。
スクリーンに映し出される森、湖、洞窟は、死者を悼みあの世へ送る大きな何かだ。
あたしはタイ仏教の生死観やアニミズムーー生と死、過去と未来、自然と人間、
さまざまな二元性が融合する臨界点に放り込まれて、それを観るよりも”体験”したような気がしたのだった。
しかし、あの新感覚かつ懐かしい心地よさってなんだろう、やっぱり融合への憧憬なのか。

で、この作品、カンヌでティム・バートンが「これまでにないファンタジー」と絶賛しパルムドール。
ファンタジーの奇才も、それから世界も、西洋的なファンタジーに限界を感じているのだろーか。

優れたファンタジーは普遍性を内包する、神話のように。
「現代価値を持つ唯一の神話は地球の神話、でも私たちはまだその神話を持っていない。
それに一番近いのが仏教」と、神話学者のジョセフ・キャンベルは言った。さらに、時代に合ったモデルが必要であるとも。
神話は似たような話が世界に同時発生しているといわれるが、それぞれは異なり融合しない、
なぜなら特定の集団のためのものだからだ。

そしたら昨日テレビのニュースで、ジブリの次回作について宮崎駿氏。
「今はファンタジーを作る時期ではない、あまりに多く作られ過ぎてゲーム化している。
今こそ等身大の人間を描かなければ。海の願いが、これからの時代には必要だ」

いまこの世界が求めるファンタジーって何か。
海の願いって何か、きっとあたしたちがかつていた(とされる)深い海、境界がない無限の世界、
世界にまだ輪郭と境界がなくて、キリストが「光あれ」といったその前のひとつの世界。
いま、神話を語ることができる人はどれだけいるのか。





2011/03/17

6日目

地震から6日目、
音楽やアートなどイベントの中止が続いているけれど、
不謹慎を承知しながら、自分の表現をしようとする仲間やアーティストに励まされる、
救われるのは僅かで一部の人は不快かもしれない、
それでもやるのは、彼ら(私)が最も辛い時、音の力に救われてきたからだ。
彼らはそれを強く信じる、そうやって祈る。
むしろこんな時に信じられないなら、その人はうそだ。


今何ができるのか考えて、物質的にできる限りのことを行ったら、
その後必要なのは、失った心に栄養を与えること。

2011/03/14

Sun Ra in Egypt and Italy

3.11

幕張の取材帰り、電車中で大きな地震。車両が横に大きく揺れて平井駅に停車した。
乗客は車外に飛び出すが、プラットフォームは船上のように横揺れして
駅前のツインタワーはぎしぎし音を立て撓っている。
近所のネットカフェに避難したものの、ネットから流れる被災映像は現実味がない。
心配な人達に携帯メールするものの、届かないのか全く返事なし。
PCメール、twitterで友人達の安否を確認したものの、電車は朝まで動かない。
結局、夜中すぎに大量の不在着信とメールが届くが、
それまでは、狭い空間で死んだようにしんと静かなケータイを握りしめ、
回線先の暗闇に飛び込んでいきたくなるような想い。

土曜朝、電車が復旧して帰宅すると、本が傾れ食器が割れている。
家族と電話がつながり、一番に会いたい人に会って触れて、安心して力が抜ける。
原発爆発が心配すぎるが、ひとまず友人達や仕事先の人は無事のよう、
夜は近所のeriちゃんと鍋をして夜更けまで話し倒し、そのまま泥のように眠る。

今日は昼過ぎに起き出し、eriちゃんと井の頭公園まで歩く。
公園は春めいていて、あっけらかんとした光の中で木々、湖、鳥、
ランニングをする人、子連れの家族、犬の散歩をする人、手をつなぎ歩く男女、
芝生の上のグループ、男、女、老人、子供、外人、
そこには驚くほど変わらない日常があって、皆がそれを噛みしめているように見える。
それはいつも以上に日常、白昼夢を見てるようで目眩がする。

変わらずメディアの情報は錯綜気味、さまざまな人達の思いが空気中に飽和しているかのよう。
日常気づかなかった幸せと、見ない振りしてた自分の無力さを1:1で痛感。

2011/03/06

「私たちは眠らない」@シアタートラム



鍼を打ったため抜け殻のような身体を引きずりつつ、
BABY-Qの「私たちは眠らない」@シアタートラムへ。

BABY-Qは初であった。
いろいろなものが擦れる音がした、気配がした、
不均衡が擦れて生まれる火花やノイズ、夢と現実、光と影、
世の中に飽和したあらゆるものが氾濫して解体していた、
それがひとつの舞台に何層にも重なっていた。
擦れて生まれるものは痛く、見とれるほどにきれいだった。

さらに終演後、ざわざわと感情の層を抱えて楽屋に向かうと、
日常地続きのナイスな笑顔で皆をニコニコと迎えてくれるヨーコさんとbingさんに会い、
やっぱりこの二人は最高だとおもった。



2011/03/05

変わらないものが終わるとき。


ある日、ずっと変わらないものを想像する、闇を照らす一つの神のように。
でもどうやらそれはないのであって、
だからこそ、不確実性を前提に、仮想やフィクションを抱きしめている。
永遠と普遍への憧れ、虚構のはかなさ、それに伴う美しさを。

不確実性をどれだけ語り、あるいは語らないかということ。
世の表現で、それを好きかどうかの判断要素として、
その不確実性との距離感とか、位置づけのセンスっていうのはけっこう大きいと思う。
永遠なんかないんだぜ、と断言、あるいは熱唱されるのも困るのだ。

その前提を無条件でうっちゃって、信じたいと思うことが愛なのかも、
信じられなくなる時がきたら、きっとそれはおしまい。

2011/03/02

Que quere que que

雨が降った翌朝、
街角にこんな音楽が流れていたらと想像する。


お皿とナイフで演奏するJoao da Baiana,
白スーツの着こなしがいかす。

春はもう近いよ。
サラバ、いってきます。

2011/03/01

エキゾチズムを間違える


旅が好きだ、いつでも旅に出たい、
寒さと三半規管はめっぽう弱いが移動したくて仕方がない、
若干多動症気味である、移動は電車が良い、飛行機なら更に良い。

雨に霙が混じり始めた本日午後、自宅作業中にコーヒー豆が切れたことに気づき、
しかしながらあたしは1日2杯コーヒーを飲まないと禁断症状が出るため、
やむなく豆をひいてくれる最寄都市カルディ(吉祥寺)まで出ようと、
決死の覚悟で玄関を開けた瞬間、ありえない寒さにその場でドアを閉めた。

予定を大幅に変更し、最近入手したモロッコと南インドの料理本を眺め、
生温い風が吹く街角を想像する。そうえいば地方に住んでいた時は、
迷いに迷い購入した一枚のCDとジャケ、夜中のラジオの一曲に
最高値の解像度を持って望み、そこには無限の世界が立体で広がっていた。
ワールドミュージックに大変詳しい知人のDJが、実は旅が嫌いで旅の経験は皆無に近く、
できる限り家にいたいと知った時はのけぞった。
そんな内部の旅から生まれるものもあって、間違ったエキゾチズムの痕跡が残る作品こそ最高であるとも思う。

でもあたしはやっぱりリアルな旅に行きたいよ。
とりあえず明日は妄想をやめて撮影に行き、確定申告をして、スパイスとクスクスを買おう。