ナビゲーション

2011/12/24

Hey! Bo Diddley


bo、あなたのような菱形ギターを弾くのがあたしの夢なの。
ギターは打楽器にもなるってことよね。
こんなビートとアタック音だけで、ダンスミュージックを1曲作ってみたい。
ドラムの音を、全部ギターに置きかえるってどう?

2011/12/18

右側に気をつけろ

”南米の作家が言った。
新しいものを作ろうとするのではなく、かつてあったものを書け”

一枚の写真、一枚の絵、一つの言葉
それは世界の捉え方の表明である
触れた瞬間に、世界がまったく新しいものに見える、新たな目を得る
例えば動いているのは地球のほうだったと気づく瞬間のように
なぜアートを音楽を文学を旅を必要とするのか
きっと新しい世界を見たいのではなく
もともとあったはずのものを見たいのだ

2011/11/13

mule musiq endless flight


























12/9 fri @eleven tokyo
Live: 
Isolee(pampa)
Arto Mwambe(live at robert johnson)
DJ: 
Toshiya Kawasaki
VJ: 
leitfaden
Lounge: 
Ackky(Journal)
HARUKA(FUTURE TERROR)
Maki(Liveloves)

2011/10/03

余白とゆらぎに宿るもの 東京μ粒子@テルメギャラリー



日曜。
夕方にぶらぶらと松岡一哲写真展@テルメギャラリーを見に行った。
イッテツくんとは最近DJの時に出会ったのだが、大学が同じで地元がほぼ同じ、
さらに奥さんのmariiちゃん(美人)とは、大学時代にM出版社で一緒にカメラアシスタントでしごかれており、
同じく奇跡的な再会を果たした。
夫妻の営むテルメギャラリーは、都立大の商店街の八百屋の隣にある。

そして、この写真展がとても良かった。
可愛いい女の子のポートレイトや日常の景色には
目に見えない余白のようなものを強烈に感じて、
音楽でいうとダブ感覚、音のすき間の無音に宿るもの、
もしくは印刷の版ズレのようなゆらぎが滲んでいた。

写真は英語では光を描くという意味で、つまり真を写すものではないらしい。
光には様々な波長のスペクトルがあって、可視光線も不可視光線も含んでいて、
それはいつも虚と実のまわりでゆらゆらと揺らいでる。
0と1の整列やアルゴリズム、言語や名前の概念からはみ出る余白、
それらに宿るちからは境界線をぶちこわしてくれる。

たぶんあたしたちの日常にブレッソンの決定的瞬間はない、
そこには虚実とそれを媒介する何かがあり
熱さも冷たさも、愛も毒もすべては等価なのだ。





http://www.thermegallery.com/

2011/09/19

9/11弁天ROCKERS&OPPA-LA


















今年の夏もoppa-laにお世話になりました! 
idjut boys〜アレハンドロ〜PPP〜弁天ROCKERS10周年などなど。
夏の思い出の一部を upload..




2011/08/06

Marc Ribot Y Los Cubanos Postizos




黄色がかった薄暗い照明、葉巻とラム、人々のノイズの間から立ち上る音楽。
ブエナビスタ(映画)で見たイメージくらいしかないキューバだが、彼らも偽キューバ人。
鮮やかに想像できるのは、あたしたちがそこから遠く離れているからかもしれない。

昨日、Marc Ribot Y Los Cubanos Postizosのライブ@クアトロを観にいった。
マーク・リーボーをはじめて知ったのはラウンジ・リザーズであって、
学生の時に知ったY Los〜はソロ作よりも良く聴いていた気がする。
マーク・リーボーのギターは動的なんだけれど、同じくらい禅的な静けさが並列にあって、
彼のミニマルなギターソロ最新作「Silent movie」もすばらしかった。

変幻自在のギター、空間を四方八方から満たす音とリズムの洪水、幸福感。
才能とは過剰であり、それは湧き出るもの。
圧倒的であるからこそ、絶対動は絶対静を連想させる、つまりは相対するものが際立つのであるのよね。

2011/07/31

自白に数秒

今朝。約束に遅刻しそうになり、あわてて駅近くのレンタルT屋に自転車を泊めて走る。
用事を済ませ3時間ほどして戻ると、駐輪場に自転車がない。
掲示板は、自転車は撤去したので3000円を支払って取りにこい、さもなくば廃棄処分すると言っている。
これは市の撤去料と同じ価格である。なんと、ここにも価格協定が存在したのか。
20代そこそこの警備員に、「イヤ3時間店の中にいたんですけど」と言ってみると、
「嘘をつかないでください。防犯カメラに駅に向かう姿が写ってます」と苦笑いされた。
しかもあたしは、思いっきり他店の名入りの買い物袋を下げている。
すげえなT屋…自白を促す刑事のようだ。

しゅんとしてみたら、あっけなく3000円はタダになった。
もう少しまともな嘘がつけたら、少しは人生は変わったのか。

2011/07/24













































THE GIFT 
2011/8/7SUN  HouseAJITO ¥1,500-1D 15:00-20:00 
Language,LIVELOVES,
DJ Sprinkles(aka.Terre Thaemlitz),ZECKY


2011/07/19

A SPACE ODYSSEY






















宇宙を飛んでるような猫に会った。

2011/07/13

1冊で終わる人とそうでない人の違いについて。

ミュージシャンには一発屋がいて、小説家では一冊しか本を出さない人がいて、
その一方で延々と続けられる人もいる。その違いって何なのか。
創作し表現する人がアーティストである、とするならば、
そもそも人はなぜアーティストになるかということなのだけど、
それはきっと、誰に言われるでもなくアーティストになるというのが本当であって、
なぜならアーティストでいられない”自分”は、存在することが不可能だからである。

1冊出すことはある意味儀式で、とりあえず表現は認められ、承認欲求は満たされる。
つまりは自己実現で、問題は、その後創作欲は残るのか、だんだん減るのか、なくなるのか。
満たされたのに、やめるのをやめた時には、次第にアーティストという型を追った、
その道を歩いているだけの人になって、型通りのアーティストらしき言動をなぞったりする。
満たされないでいることが願いになる。
さらに、世の中には芸術をありがたがる人達がいて、ややもすると、そのような言動はアーティストらしく望ましい、
と崇拝されてしまうのであって、その本人もやめられない。芸術至上主義もなんだかな。

本を1冊書いて書いた気になっているなよ、と知人が言った言葉はある意味真実だと思う。
大切なのは、自分を更新しながらずっと続けていくことなんだろう。

世の条理あるいは不条理に何らかの強い感想を持ち、自分の信じる理想や美を求めて
新たな価値でもって世の中を変えたいと願い、新たな世界をつくること、
見えないものだからこそ、創作することで答えを探し真理を手に入れること。
何より夢中になること、オブセッション。
その理想が、奇跡的にも社会や人類や、あるいは自然全体の願いになったときに、
もしかしたら非アーティストはアーティストになるのかもしれない。
一方で強烈な負の願いが表れることもあって、それはファシズムや戦争でもあるのだろうけど、
やっぱりあたしは、最終的に美しいものや真理が残っていくと信じたい。
たとえゴミみたいに汚く見えるものであっても。

今この瞬間も、世界中の人々は大小の部屋であらゆる言葉を使って書く、
あるいは非言語で歌い叫び、描いている。
同時に、「アーティストの肩書きを無くしたときに、何ができるか」と言った文筆家の友人の言葉をぼんやりと思い出す。

2011/06/07

7/2 SUMMER OF LOVES ~ALOHALOHA~


SUMMER OF LOVES ~ALOHALOHA~
2011.7.2.Saturday
start 23:00 / door 2000yen
ENOSHIMA CURRY DINNER OPPA-LA
http://oppala.exblog.jp/


-LIVE-
LIVELOVES
PEPE CALIFORNIA
(http://pepecalifornia.com)

-DJ-
二見裕志
やけのはら
FUCK MASTER FUCK

2011/05/25

空想旅行/氷の反響 ノルウェー編

週末。初夏を思わせる快晴の土曜日、
部屋の中のすべて、布団をソファを洋服を机を床を土鍋を、
すべて外に出して陽に当てたら気持ち良いだろう、と窓を開け放ち、
そのまま浮かれた気分で眠ったところ、当然の如く風邪をひき発熱した。
今週はそれをずるずる引きずり仕事をしている。
すでに皆気づいているだろうが、日本の四季は4等分ではない、1/3が冬だ。

いまは、発熱した頭で寒いノルウェーのことを考えている。
今朝、ノルウェーのパーカッショニストのライブ(@山羊に聞く?)の誘いがあった。
テリエ・イースングセット、彼は氷を叩いて演奏する。


この反響。ふとShhhhhもDJで選曲していた、スペインのオルカテックスの音を思い出す。
彼らはバスクに伝わる、チャラパルタという木琴のような伝統楽器を奏でるアーティストであるが、
現地のライブでは木片のかわりに氷の棒を使って演奏し、それが大変良かったと聞いた。
もしかしたら、ルーツが近いところにあるのかも。

そういえばノルウェーには、洞窟のかわりに氷窟がある。
古代文明では、洞窟や鍾乳洞は儀式を行う聖所であり、
儀式の音楽を奏でる場所であり、それ自体が反響する楽器でもあった。
つまり氷窟も楽器だったのかもしれなく、氷あるいは氷柱の音楽があり、
氷壁には壁画が描かれたのかもしれない。

ずっと遠くて寒い、氷の音が透明に響くノルウェー。
余談だが、北極地点の永久冷凍層に作られた「スバルバル種子貯蔵庫」も気になる。
世界の絶滅に備え、世界中から集めた”地球上で最も重要とされる種子”を保管する、つまりはノアの箱船。
果たして”最も重要な種子”を誰がどう決めるのは不明だが、現代の箱船は、どうやらノルウェーの氷の中にあるのだった。




2011/05/15

とろりとした夜の季節

土曜。渋谷o-nestにてLivelovesライブ。リハ終了後、メンバーmiya推薦の梅蘭という中華屋へ。
名物というあんかけ焼きそばをメンバー全員で食す。これは厳密にいえばあん入り焼きそばであり、
具材&あんを堅焼き麺で包んだ代物、見た目はなんというか失敗したホットケーキのよう。
パリパリとろりの具合が絶妙で美味。イベントは人がけっこう来ていて、10年来の友人らとも再会。
Dr.茶谷くんの新パンクバンドpopsカッコ良かった。
バンドは夏以降に結構ライブが決まってきていて、とても楽しみ。その前にレコーディングも進めたいところ。

ライブ後、皆と別れてbonoboへ向かい、3人組djユニットlast day bikiniメンバーでレコ屋勤務kayo、文筆家GJと待ち合わせ。
2人とは6月にbonoboで一緒にdjする予定なのだが、実はこの2人、10年以上前にマニュアルオブエラーズという
高円寺のレコ屋の1Fにあったお洒落カフェで共にバイトしてた、長い友人である。
その店は全てを4人のバイトに任されたため、日々まかないやケーキを好き勝手に作って焼いて食べて、
という夢のようなバイトであったのだが、好き勝手やりすぎたためか1年後につぶれた。
あたしらがつぶしたのか。いやもう時効だろう。

この日はサラームさんK.E.Iくんらのイベントだったが、
なぜか女装している店主セーさんとちゃぶ台を囲みイベントの話、しつつsuisideのフランスライブを鑑賞、
単純なリズムループの上でハマショー的アクションをキメるアラン・ヴェガ、投げやりなシンセを小手先で操る
マーティン・レヴ、あたしもできるかもと思わせるキッチュなパフォーマンスが憎い。来日希望。
しかしハイセンスが過ぎるkayo&GJとのトークが面白すぎてまだまだ話し足りないため、
原宿に移動して結局始発まで飲む。今年も夜中の散歩が気持ちいい季節がやってきたね。

2011/05/09

相模湖ブルース

連休終わりの土曜。
freaks festivalのため、早朝からつのだ氏と待ち合わせ、相模湖へ電車で向かう。
小雨降る中、相模湖駅で下車。客の流れに逆らい、湖に立ち寄る。


雨のためか、どこかうら哀しさが漂う湖畔、観光客は1人もいない。




永遠に時が止まったかのようなレジャー施設に心が躍る。
街にうすく流れるシンセの演歌カラオケ。
射的、スマートボール、インベーダーゲーム、当時の花形レジャーを併設する、デイドリーミングな空間。
射的すべきか本気で迷う不可思議な景品たち。





それもそのはず、ここは昭和16年に埋め立てられた日本初の人造湖であったのだ。
部落移住、強制労働、そこはかとなく漂うブルース。
完全貸切りのスワン号に乗り、山上の寂れたラブホを眺めていると、
少しずつ時空が狂ってくる。





その後、夢を覚ますようにして会場へ。
Washed outが奏でる、メロウで切なく、あか抜けないシンセウェーブには、
なんとなく相模湖の気だるい微風を感じたのだった。


2011/04/15

Toshiko Akiyoshi Piano Trio




ブランコを見つけたら乗ることにする。
たまには定位置から外れたらいい。

2011/04/09

いろんな記憶がきこえる桜


今日はいいかげんさぼってた原稿を書くぜ、と心に決めていたのだが、
世の憂いとは全く関係のない内容に全く集中できず春風の中ランニング。
そろそろ震災からまる1ヶ月だ。

世の中は桜が満開である。
薄曇りの空よりも景色は明るい、透過光で脳内がハレーションを起こす。
桜を観ると記憶や夢や妄想やイメージが溢れ交錯し、言語にするのが追いつかなくなる、
特に思春期は諸々感じすぎるためすぐに気持ちが飽和するも言葉にならず涙しか出なかった記憶を思い出す、
桜から感じる感情の量には未だに追いつける気がしない。
多幸感と切なさで胸がいっぱりになり、気の利いたこともいえず黙りこんで、
帰りぎわにひとこと「ああ、やっぱり桜はきれいだね」と恋人に話すのだ。

・知らぬ間に感情は蓄積する、毒をゆるやかに体に浴びるように、
少しづつ少しずつ。

で、走っているうちになぜか涙が出てきて止まらない、
でもどうしようもないのでそのまま走り続ける。

2011/04/06

ぼくらは街をよむ

かつて人々は、自然に景色を読んだ、詠んだ。
今ぼくらは、消費のためにデザインされた街中で、
整然と立ち並ぶビルのすきまに、平坦なコンクリートの割れ目に、または高架下の水路に、
昔と同じように景色をよむ。

東京の川の上はとても静かだ。
都市のノイズ、巧妙なフィクションから隔絶された真空地帯のよう。



2011/03/29

ブンミとジブリと世界のファンタジー



ーこの世は神の手で作られたと考える人と
自然にできたと考える人、その間には決定的な違いがある

先日映画を観た、タイ人監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」。
舞台はタイ北部、死を目前に迎えた男性の前に、精霊や民話の奇妙な生物が現れる。
スクリーンに映し出される森、湖、洞窟は、死者を悼みあの世へ送る大きな何かだ。
あたしはタイ仏教の生死観やアニミズムーー生と死、過去と未来、自然と人間、
さまざまな二元性が融合する臨界点に放り込まれて、それを観るよりも”体験”したような気がしたのだった。
しかし、あの新感覚かつ懐かしい心地よさってなんだろう、やっぱり融合への憧憬なのか。

で、この作品、カンヌでティム・バートンが「これまでにないファンタジー」と絶賛しパルムドール。
ファンタジーの奇才も、それから世界も、西洋的なファンタジーに限界を感じているのだろーか。

優れたファンタジーは普遍性を内包する、神話のように。
「現代価値を持つ唯一の神話は地球の神話、でも私たちはまだその神話を持っていない。
それに一番近いのが仏教」と、神話学者のジョセフ・キャンベルは言った。さらに、時代に合ったモデルが必要であるとも。
神話は似たような話が世界に同時発生しているといわれるが、それぞれは異なり融合しない、
なぜなら特定の集団のためのものだからだ。

そしたら昨日テレビのニュースで、ジブリの次回作について宮崎駿氏。
「今はファンタジーを作る時期ではない、あまりに多く作られ過ぎてゲーム化している。
今こそ等身大の人間を描かなければ。海の願いが、これからの時代には必要だ」

いまこの世界が求めるファンタジーって何か。
海の願いって何か、きっとあたしたちがかつていた(とされる)深い海、境界がない無限の世界、
世界にまだ輪郭と境界がなくて、キリストが「光あれ」といったその前のひとつの世界。
いま、神話を語ることができる人はどれだけいるのか。





2011/03/17

6日目

地震から6日目、
音楽やアートなどイベントの中止が続いているけれど、
不謹慎を承知しながら、自分の表現をしようとする仲間やアーティストに励まされる、
救われるのは僅かで一部の人は不快かもしれない、
それでもやるのは、彼ら(私)が最も辛い時、音の力に救われてきたからだ。
彼らはそれを強く信じる、そうやって祈る。
むしろこんな時に信じられないなら、その人はうそだ。


今何ができるのか考えて、物質的にできる限りのことを行ったら、
その後必要なのは、失った心に栄養を与えること。

2011/03/14

Sun Ra in Egypt and Italy

3.11

幕張の取材帰り、電車中で大きな地震。車両が横に大きく揺れて平井駅に停車した。
乗客は車外に飛び出すが、プラットフォームは船上のように横揺れして
駅前のツインタワーはぎしぎし音を立て撓っている。
近所のネットカフェに避難したものの、ネットから流れる被災映像は現実味がない。
心配な人達に携帯メールするものの、届かないのか全く返事なし。
PCメール、twitterで友人達の安否を確認したものの、電車は朝まで動かない。
結局、夜中すぎに大量の不在着信とメールが届くが、
それまでは、狭い空間で死んだようにしんと静かなケータイを握りしめ、
回線先の暗闇に飛び込んでいきたくなるような想い。

土曜朝、電車が復旧して帰宅すると、本が傾れ食器が割れている。
家族と電話がつながり、一番に会いたい人に会って触れて、安心して力が抜ける。
原発爆発が心配すぎるが、ひとまず友人達や仕事先の人は無事のよう、
夜は近所のeriちゃんと鍋をして夜更けまで話し倒し、そのまま泥のように眠る。

今日は昼過ぎに起き出し、eriちゃんと井の頭公園まで歩く。
公園は春めいていて、あっけらかんとした光の中で木々、湖、鳥、
ランニングをする人、子連れの家族、犬の散歩をする人、手をつなぎ歩く男女、
芝生の上のグループ、男、女、老人、子供、外人、
そこには驚くほど変わらない日常があって、皆がそれを噛みしめているように見える。
それはいつも以上に日常、白昼夢を見てるようで目眩がする。

変わらずメディアの情報は錯綜気味、さまざまな人達の思いが空気中に飽和しているかのよう。
日常気づかなかった幸せと、見ない振りしてた自分の無力さを1:1で痛感。

2011/03/06

「私たちは眠らない」@シアタートラム



鍼を打ったため抜け殻のような身体を引きずりつつ、
BABY-Qの「私たちは眠らない」@シアタートラムへ。

BABY-Qは初であった。
いろいろなものが擦れる音がした、気配がした、
不均衡が擦れて生まれる火花やノイズ、夢と現実、光と影、
世の中に飽和したあらゆるものが氾濫して解体していた、
それがひとつの舞台に何層にも重なっていた。
擦れて生まれるものは痛く、見とれるほどにきれいだった。

さらに終演後、ざわざわと感情の層を抱えて楽屋に向かうと、
日常地続きのナイスな笑顔で皆をニコニコと迎えてくれるヨーコさんとbingさんに会い、
やっぱりこの二人は最高だとおもった。



2011/03/05

変わらないものが終わるとき。


ある日、ずっと変わらないものを想像する、闇を照らす一つの神のように。
でもどうやらそれはないのであって、
だからこそ、不確実性を前提に、仮想やフィクションを抱きしめている。
永遠と普遍への憧れ、虚構のはかなさ、それに伴う美しさを。

不確実性をどれだけ語り、あるいは語らないかということ。
世の表現で、それを好きかどうかの判断要素として、
その不確実性との距離感とか、位置づけのセンスっていうのはけっこう大きいと思う。
永遠なんかないんだぜ、と断言、あるいは熱唱されるのも困るのだ。

その前提を無条件でうっちゃって、信じたいと思うことが愛なのかも、
信じられなくなる時がきたら、きっとそれはおしまい。

2011/03/02

Que quere que que

雨が降った翌朝、
街角にこんな音楽が流れていたらと想像する。


お皿とナイフで演奏するJoao da Baiana,
白スーツの着こなしがいかす。

春はもう近いよ。
サラバ、いってきます。

2011/03/01

エキゾチズムを間違える


旅が好きだ、いつでも旅に出たい、
寒さと三半規管はめっぽう弱いが移動したくて仕方がない、
若干多動症気味である、移動は電車が良い、飛行機なら更に良い。

雨に霙が混じり始めた本日午後、自宅作業中にコーヒー豆が切れたことに気づき、
しかしながらあたしは1日2杯コーヒーを飲まないと禁断症状が出るため、
やむなく豆をひいてくれる最寄都市カルディ(吉祥寺)まで出ようと、
決死の覚悟で玄関を開けた瞬間、ありえない寒さにその場でドアを閉めた。

予定を大幅に変更し、最近入手したモロッコと南インドの料理本を眺め、
生温い風が吹く街角を想像する。そうえいば地方に住んでいた時は、
迷いに迷い購入した一枚のCDとジャケ、夜中のラジオの一曲に
最高値の解像度を持って望み、そこには無限の世界が立体で広がっていた。
ワールドミュージックに大変詳しい知人のDJが、実は旅が嫌いで旅の経験は皆無に近く、
できる限り家にいたいと知った時はのけぞった。
そんな内部の旅から生まれるものもあって、間違ったエキゾチズムの痕跡が残る作品こそ最高であるとも思う。

でもあたしはやっぱりリアルな旅に行きたいよ。
とりあえず明日は妄想をやめて撮影に行き、確定申告をして、スパイスとクスクスを買おう。

2011/02/25

中身をこっそり入れ替えよ


ある時からわたしたちになった、同じ暦と地図を持って、
それは国や宗教になって、会社の派閥や昼間の団地の小さな集いになった。
それぞれのweは正しく、他のweを認めない。

その中にいて、何かが間違っているような気がしまくっている、
それを一番ラディカルに批判するには、ただ反対することではなく、
その中におけるものごとの更新を狂わせる例外であること。

「真夜中に忍び込み、weの中身をこっそり入れ替えよ
それから、その塔の梯子をはずせ」

アンチやポストを唱えるだけでは、主語を持つことにならない。
重要なものが生まれる瞬間って、きっとポストじゃなくて例外。
さらに、思考しないことは例外の対局。